悪い人の話:目的

私は自尊心が低い、のだと思う。多分。自尊心が低いことは良くないこと、らしい。
私には、自尊心、というものがよく判らない。

恐らく、自尊心とは自己採点のようなものだろう。自己採点があるからには、他者による実際の採点結果というものがある。センター試験しかり、自己採点が有用なのは実際の採点結果が不明な場合だ。採点するのは他人だ。私は100点なんだ、と受験生がどれだけ叫んだところで、採点結果が60点ならば、その人は60点なのだ。採点結果が開示されるのであれば、自己採点に意味はない、と思う。

私は自己採点ではなく、採点結果が低いのだ。採点結果は周囲からの評価だ。理由はどうあれ、私は集団から排斥される子どもだった。それが私の採点結果だ。
だから、自尊心、というものが私にはよくわからない。私の採点結果は低い点数で、その実績がある。テストはもう返却済なのだ。自己採点は無用だ。
それに、私は私のことが嫌いではない。世界中の人にお前は0点だと言われても、私は、私だけは、0点を取る自分だとしても、私のことが好きだ。それで充分だと思う。
こういう思考自体が、いじめの中を生き延びるために自己防衛として身に付けたものかも知れない、という自覚はある。
点数が低い私は悪い人なのだと、ずっと、そう思っていた。悪い人なのだからせめて周りに迷惑をかけないように頑張らなければならない、と考えて生きてきた。
再会したいじめ加害者に、覚えてない、と言われて、救われた思いがした。ああ、私は20年忘れずに恨まれるほど悪い人ではなかったのだと、そう思ってしまった。
それから、頑張れなくなてしまった。
もう一度頑張れるようになるにはどうしたらいいのか考えた。
30余年かけて築いてきた自己像を改革せねばならないのだろうか。
けれど。
自己採点が60点だと思っていたテストが80点だったら、私も結構やるじゃん、で済むけれど、自己採点80点が60点だったら。
今度こそ、生きていけなくなってしまうのではいか。
そういう怖さは拭えないけれど、ひとまず自己像を考え直すことが、この文章を書く目的である。