悪い人の話:その4

私が通っていた小学校では四年生から部活動と、クラブ活動と、委員会活動が始まった。

 部活動は器楽部かバスケットボール部、何をしているかよく判らない映像部の3択だった。人数が少ないので選択肢はそれだけだった。強制ではなかったが部活に入らない子は少なかった。楽器も体育も苦手だった私はバスケットボール部に入った。

クラブ活動は手芸クラブや調理クラブ等があり、確か水曜の午後の一時間がクラブ活動の時間だった。私は調理クラブに入った。
委員会活動のことは覚えていない。
多分、この頃が一番辛かったと思う。
運動神経が悪い私は、当然バスケットボール部では何の活躍もしなかった。ただ決められたメニューの練習をこなした。運動神経の良い子たちはよく腹筋や背筋の数を誤魔化していたけれど、私は数だけはきちんとこなした。試合の時はベンチにすら入れずに客席から応援をした。6年生で引退するまで、結局公式の試合には一度もベンチ入り出来なかった。
練習中に先輩にパスを送ると、先輩はいつも少し後ろに下がってボールをワンバウンドさせてからパスを受け取った。私はバウンドなしで受け取れるようにパスを出していたつもりだった。先輩は、他の子が出すパスはきちんとバウンドなしで受け取っていた。
先輩に、皆が私のことを汚いと言うから、それで私からのパスを直接受け取りたくなくてわざとワンバウンドさせているんですか、と訊いた。私には、先輩はわざとワンバウンドさせているようにしか見えなかった。先輩は、私のパスが弱いからワンバウンドしてからじゃないと受け取れないんだ、と言った。
調理クラブでは、次週に何を作るか計画を立てる週と調理をする週があった。調理クラブの先輩に、Dという男子生徒がした。支援学級というものがない学校で、Dは普通のクラスに所属していたけれど、Dはあまり話の通じない、気に入らないことがあると暴れて手が付けられなくなる、そういう男子だった。
調理計画を話し合っていると、Dにちょっかいを掛けられて、追い掛け回されたことがった。先輩の誰かがDを私にけしかけたらしかった。追い掛けれれて、逃げて、追いつかれて、Dにのしかかられた。
Dは大柄で、太っていて、重かった。痛い、重い、嫌だと泣いて叫んでも、誰も助けてくれなかった。顧問の先生が調理室にいない時だった。何とかDの下から這い出して、泣きながら調理室を出て自分の教室に帰った。そんなことが3回ほどあった。
私の通っていた小学校――2年生の頃に建て替えて新しい校舎になっていた――には2階に吹き抜けの多目的スペースという場所があり、多目的スペースの上の3階は、渡り廊下になっていた。
よくこの3階の渡り廊下から2階の多目的スペースを見下ろしていたことを、とてもよく覚えている。
死ね、と言われることが多かった。
本当に、私が死んだら私以外の皆が幸せになるのなら、私は死んだ方が良いんじゃないか。そう考えていた。
9歳か10歳で、当然功利主義なんて言葉は知らなかった。
私は、私が死んだら皆が幸せになるような悪い人で、実は私だけが気付いていないだけで、そうなら、私は死ぬべきなんじゃないか。
だって皆私に死ねって言うし。
本人以外の世界中の全ての人がその人は死んだ方が良いと思っているような悪い人がいるとしたら、その悪い人は死ぬべきだろう。この国には死刑制度だってある。
それに。
嫌だ、と言ってもやめてくれない。反撃すれば喧嘩両成敗と言われて叱られる。今私がここから落ちて死ねば、先生も皆も、私がどれだけ辛かったか判ってくれるんじゃないか。
ぐるぐる考えながら、渡り廊下から多目的スペースを見下ろしていた。
不思議と、自宅でひっそり首を吊るような死に方は考えなかった。あてつけのように学校の中で派手に血を流して死ぬ死に方を考えていた。
いじめが辛くて、そこから逃げたくて死にたいのではなかった。
小学4年生にとって学校は世界の全てで、自分は世界中の人に死ねと思われる悪い人なんだということが辛かった。
だって、誰も私が悪くないとは言ってくれなかった。

結局、私は死ななかった。
ただ、何か辛いことがある度、私はあの時あそこで死ぬべきだったんじゃないかと、大人になってからも私は時々そう考えた。