悪い人の話:終わり

思い返すと、私はそれほど酷いいじめに遭ったのではないかも知れない。
ドラマのように教科書を駄目にされたことはない。黒板一杯に書かれた中傷の言葉を必死に消したこともない。給食は、多少おかずを貧相にされたこと

はあったけれど、食べられなくされるようなことはなかった。お金を要求されたこともないし、幸い小学生の内にいじめは解消されたので、酷い暴力や性的な被害も受けていない。
けれど、私は悪い人なんだ、という思考は、今も後を引いている。多分、私は自分が悪い人なんだと言う前提で自己像を形成したのだと思う。
二十歳くらいまでは自分から他人に挨拶をすることが出来なかった。私なんかに挨拶をされたら相手はきっと不快だろうと、本気でそう思っていた。
朝なかなか起きられない時や仕事が大変な時は、心のどこかで、私は悪い人なんだからもっと頑張らなきゃ、と考えて踏ん張っていた。
20年経って同窓会でAに再会して、もしかして私はそこまで悪い人ではなかったのではないか、と思ったことで、私は混乱した。頑張れなくなってしまった。
考えれば考えるほど、「覚えてない、ごめんごめんw」なんて言われて救われてしまった自分が可哀相で、可哀相がられたい自分が嫌で、どうしたらいいか判らなくなった。
あんなことがあった、こんなことがあった、嫌だった、辛かった、繰り返し繰り返し思い出し、迷路に迷い込んだようになってしまった。覚えていることと考えていたことを一度全部吐き出してしまえば、何か突破口になるのではと、この文章を書くことにした。

昔「ビューティーコロシアム」という、美容整形を扱ったテレビ番組があった。
子どもの頃容姿が原因でいじめを受けていた、暗い自分を変えたい、と言う女性が多く出ていたことを覚えている。私は正直、あの女性たちが羨ましかった。
本当に容姿だけが原因でいじめがあった訳ではないと思う。容姿に優れていなくてもいじめられなかった人はたくさんいるだろうし、私のいじめのきっかけは髪の毛が茶色いことだったけれど、茶髪の子ども全員がいじめられる訳はないだろう。
己に降りかかった不幸の原因に「容姿が美しくないから」と名前を付け、それを「美容整形」という手段で解決する。京極夏彦流に言えば憑き物落としだ。それが出来た彼女たちが羨ましかった。
私は、私に憑いた妖怪の名前がずっと判らなかった。何が悪くてこんな大人になってしまったのか判らなかった。どうすれば落とせるのか、普通になれるのか判らなかった。
この文章を書いたことで、私は図らずも、私に憑いた憑き物に名前を付けることが出来た。
「悪い人」だ。
いじめは確かにきっかけではあったけれど、私を不幸にしていたのは、私は悪い人なんだ、という自己像だった、と思う。
私の仕事はSEだ。システムに障害が起こった時、障害に名前を付けることが出来れば、その時点で障害の8割は解決していると言える。
私は自分を可哀相がりたかった。自分は世界で一番悪い人なんだと思って四半世紀も生きてきた自分に「可哀相に」と言いたかった。
この文章に嘘は交えたつもりはないけれど、20年以上昔のことを思い出しながら書いたものだから、自分に都合が良いように改竄されている記憶もあるだろう。出来るだけ自分が可哀相に見えるように書いた自覚も、少しある。私をいじめから救ってはくれなかったけれど、泣く私を慰めてくれた友だちだって、少しはいた。
誰かに「可哀相に」と言ってもらって相手に負担を掛けるのは本意ではないから、自分で自分に可哀相に、可哀相に、と思いながら書いた。アウトプットとして残しておきたかったからブログと言う形にしたが、どうせこんなとこ、読む人はそうはいないだろう。
この一万字足らずの文章は、私の憑き物落としだ。
メンタルクリニックの主治医に最初に、私はずっと私のことを悪い人だと思って生きてきた、と言った時、涙が流れて止まらなかった。
休職中の私を気にかけて電話をくれた母に同じ話をした時も、泣いた。
思い出して、考えて、一人の部屋でも随分泣いた。
今は、泣かずにこの文章を書けている。
ようやく、憑き物は落ちたらしい。

イソップ物語に、すっぱいぶどう、という話がある。

キツネが、たわわに実ったおいしそうなぶどうを見つける。食べようとして跳び上がるが、ぶどうはみな高い所にあり、届かない。何度跳んでも届かず、キツネは怒りと悔しさで、「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか。」と捨て台詞を残して去る。

(以上wikipediaより引用。)
私はこの話が大嫌いだった。
多分、キツネを反面教師にして負け惜しみの馬鹿馬鹿しさを学べとかそういう話なんだと思うが、まったくもって余計なお世話だと思う。
正直者で善人(人?)の鳥でも登場させて、そんなことないよキツネさんこのぶどうはとっても甘くて美味しいよ!、なんて言わせてみたらどうか。
うるせーな届かねえって言ってるだろ!!!である。
量子力学不確定性原理がどうたらこうたらで、事象は観測者が観測した瞬間に決定する。
シュレーディンガーの猫は箱を開けるまでは半分死んでて半分生きている。
手が届かないぶどうはすっぱくていいのだ。
手が届かない場所にあるぶどうが甘くて美味しかったとして、それが一体何だと言うのか。
これから教訓を学べ、なんて言うのはぶどうに手が届く場所にいる者の傲慢だ。
……と、私はずっと思っていた。だからこの話が嫌いだった。
今はとりあえず、ああ美味しいぶどう食べられたの良かったね、くらいには考えられるようになった。まあ私は食べられないんですけどね。

 

いつか、ぶどうに手が届く日が来ることを願って。
――了